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Writer's pictureKumi Seto

消えたうわばき(記憶のかけら Vol.2)

Updated: Feb 10, 2024




人とは、集団とは、社会とはなにか。「信頼する」とは、どういうことか。

8歳の頃から、私はこの問いについて考え続けている。というより考えざるをえなかったのだ。安全な居場所を確保するために。

カラフルな幼稚園時代を過ごしていたわたしにとって、小学校はちょっぴり窮屈な場所だった。

こじんまりした幼稚園に比べて、小学校にはたくさんの生徒と先生がいて、いくつもの規律があった。そしてバランスよくなんでもできることを求められた。

私にはできないことがたくさんあった。まず、暗記が大嫌いで漢字が覚えられない。運動もダメで、特に水泳と鉄棒と跳び箱が苦手だった。

ただ、私にはある気質が備わっていた。まず、「できない」を「できる」に変えたいという思いがとても強かった。さらに、できるようになるためのプランを立てて、コツコツ取り組むのが得意だった。

自分としては水面下で必死にバタ足しているのだけれど、側から見ればなんでもそつなくこなす子だったのだろう。そんな私に同級生や先生は「優等生」のレッテルを貼った。そのレッテルに私は「いい子でいなくちゃいけない」というプレッシャーと、「あなたは違う人」と言われているような居心地の悪さを覚えた。

そして小学校2年生のある日。下駄箱から私のうわばきが消えた。

先生や友だちが一緒になって探してくれた。しばらくして、校舎の裏にある水路のそばからうわばきが出てきた。汚れたうわばきを見て私は悟った。

誰かが私を嫌っている――。

思い当たる人はいなかった。だから数日後、「私がやりました」と先生に名乗り出た子たちの顔ぶれに私はショックを受けた。

それはいつも一緒に下校していた、私以外の女の子たち全員だったのだ。

このとき私のなかに芽生えたのは、悲しみよりも恐怖心だった。人には表の顔と裏の顔があるらしい。そして、同調圧力から集団は思いがけない行動に出ることがあるらしいことを、8歳の私は学んだ。

その日を境に、私は警戒心を抱くようになった。同級生や先生たちの関係性や一挙手一投足をつぶさに観察した。空気を読み、クラスメートや先生の気持ちを害さないように振る舞った。

そのおかげもあってか、小学校2年生の一件以来、嫌がらせをされることはなかった。うわばきを隠した子たちとはその後も友だちだったし、友だちと時間を忘れて遊ぶのは楽しかった。奥歯を使って頬の内側の肉を噛んでえぐり続けるという奇妙な自傷癖を繰り返すようにはなったけれど(このクセは緊張感や不安感からきていたのだと最近知った)、周りの人たちに傷つけられないという目標はクリアすることができた。

もうちょっと無邪気な子ども時代を過ごしてみたかった。でも、うわばき事件のおかげで、私には主観と客観とを切り替えながら人や集団を多角的に観察する力が備わっていった。この観察癖は、取材をして伝える仕事をしている私の最大の強みであり、自信の源になっている。

そしてこの経験は、今の私の研究活動に密接にリンクしている。人とは、集団とは、社会とは、信頼とはなにか。これこそが、私が人生をかけて向き合いたい問いであり、8歳の頃から変わらない関心事なのだ。

(つづく)

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