「あなたのためを思って」という言葉がある。
私はこの言葉が苦手だ。この言葉にはたくさんの危うさが潜んでいるから。そして、この言葉を聞くたびに苦い記憶がよみがえり、胸がぎゅっと苦しくなるから。
忘れられない思い出がある。小学生のときのことだ。
同じクラスに、せいちゃんという子がいた。せいちゃんは優しくて、ちょっぴり控えめで小柄な男の子だった。いつも短パン姿でよく笑い、そっくりな顔をした妹のことをとてもかわいがっていた。
その“事件”が起きたのは、特別なイベントか何かの日だったと思う。普段は給食の小学校も、その日はお弁当を持ってくることになっていた。チャイムが鳴り、お昼休みが始まった。私たちは色とりどりのお弁当を広げ始めた。
そのとき私は気づいた。せいちゃんが、お弁当を持ってきていないことに。
せいちゃんの家にはいろんな事情があることを、私はなんとなく知っていた。お母さんの具合が悪そうなこと。住まいの環境があまり良くないこと。そして経済的に余裕がなさそうなこと。
それなら、と私はとっさに思った。みんなから少しずつお弁当を分けてもらおう。そうしたら、せいちゃんも楽しくお昼を食べられるじゃないか。誰かがおなかを空かせているのなら、みんなで少しずつ分け合えばいい。それってとっても正しくて美しいことじゃないか。
「せいちゃんにお弁当を分けてくれる人は、ここにおかずを載せてください」。大きな声でそう言いながら、私は友だちと一緒に同級生の机を回り始めた。お弁当箱の蓋はカラフルなおかずでいっぱいになった。
そのときだった。普段は穏やかなせいちゃんが突然「わっ」と泣き出し、勢いよく教室から飛び出していったのだ。
どうして……?
みんながくれたエビフライや卵焼きや唐揚げを手に、私は呆然としていた。「せいちゃんのためを思ってやったのに」。頭の中でそう繰り返した。でも、はっきりと分かったことがひとつあった。
私のしたことは、せいちゃんをものすごく傷つけたんだ--。
そのときのせいちゃんの本当の気持ちは、彼にしかわからない。でも、もし私がせいちゃんだったら、そっとしておいてほしかっただろう。なのに注目されて、同情されて、恥ずかしくて悔しくて逃げ出したくなっただろう。
そう気づいたとき、一方的な善意に過ぎなかった自分のふるまいに胸がぎゅっとなった。そして私は、自分が正しいと思うことが相手にとっても正しいとは限らないこと、押しつけと優しさは違うこと、想像する力が足りなかったことを、初めて知った。
それから10数年後。私は就職し、世の中の出来事や人々の暮らしを取材する人になった。
取材をして伝える仕事でいちばん大切なのは、問い続けることだと私は思う。取材対象に問い、読者に問いかけ、社会とともに問い直す。そして自問する。正しさを押しつけてはいないか。誰かを傷つけてはいないか。不安や偏見や差別を助長してはいないか。自分を満たすためだけに書いてはいないか、と。
振り返り、内省する。そして再び歩み始める。
この循環(ありよう)は研究活動にも当てはまる。全員にとっての正解など存在しない。だから自分や他者や社会やデータと対話し、受け取ったメッセージをもとに問いを立て続け、内省を繰り返しながら進む。
それは時としてとても疲れることだけど、私にとって「生きていく」とはそういうことなんじゃないかなと、論文をひとつ書き終えたいま、あらためて思う。
*本文は認定NPO法人PIECES magazine「それは誰のための「正しさ」なのだろう #わたしとPIECES」を加筆・修正したものです(文中は仮名)
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