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Writer's pictureKumi Seto

『透明社会』

Updated: Jul 31, 2022



『人間の魂は明らかに、他者の視線にさらされることなくみずからのもとにあることのできる領域を必要としている。人間の魂には透かし見ることのできない部分がある。全体をくまなく照らそうとするならば、人間の魂は焼き尽くされ、ある特別な魂の燃え尽きがもたらされることになるだろう。』(『透明社会』p.10-11)


自分を伝える言葉にあふれた社会を、私は「ミー社会」と呼んでいる。わかりやすい肩書き。わかりやすいメッセージ。自分のなかにある多様性を削ぎ落とすほど、自分は他者にとってわかりやすい存在になる。


だけれども、自己とは自分にとってすら不透明なものだ。自己発信にあふれた社会が透明社会だとすれば、透明社会に魂や真理はない。


『過剰な情報と過剰なコミュニケーションが示しているのはまさしく真理の不足であり、それどころか存在の不足ですらある。』(『透明社会』p.22)


「わからない」は、わかりたいという欲求を駆り立てる。わからないから知りたくなる。わからないから対話し、探究し、想像する。過剰なまでの自己発信は私たちを想像という行為から遠ざけてゆく。そして自分が発した言葉は、いつしか自らの今と生を管理し始める。


『管理社会は、その社会で生活する主体が、外的な強制ゆえにではなくみずから生み出した欲求ゆえに剥き出しになるときに完成する。それはすなわち、自分のプライベートな領域や親密な領域を放棄しなければならないという不安よりも、そうした領域を恥ずかしげもなく見せびらかしたいという欲求が優ったときである。』(『透明社会』p.120)


不透明であることは、多様な私を管理社会から自由にしてくれる。


「ミー社会」に抗ってでも、私は不透明でわかりにくい存在でありたい。


透明社会』(ビョンチョル・ハン著、花伝社)

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